こころを耕すコラムです。今回は岩田の経験からお話したいと思います。
ありがとうを1日1万回言いなさい
これは私が19歳の時、もう10年ほど前になりますね、お坊さんから言われた言葉です。当時はもう生きているのが辛くて仕方が無くて何の希望も見えない毎日でした。それでも私は素直にカウンターを片手にカチカチと鳴らしながら「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、、、」と繰り返しぶつぶつ呟いていました。大学構内で、道端で、部屋の中で、、。これ1度やってみると分かりますが、1日中ずっと言い続けないと1日1万回言うの無理なんですよ。「心なんてこもってなくていいからとにかく言葉に出し続けなさい」と言われたので、その通りに「ありがとうございます、ありがとうございます、、、」と繰り返しました。
意識のベクトル
1週間くらい続けた頃、私はある変化に気づきました。最初は口でパクパク言っていただけなのですが、ある時から何か「ありがとう」と言う為の対象を探し始めたのです。目の前の道路を舗装してくれたのは誰だろう?ゴミを拾ってくれているのは誰だろう?街路樹を植えてくれたのは誰だろう?手入れしてくれているのは誰だろう?どうして車がキレイに流れていくのだろう?突然故障して止まらないのはなぜだろう?頑丈な車を作ったのは誰だろう?その車を運転しているのはどんな人だろう?・・・もう無限に意識を向ける対象が表れるのですが、驚いたことに、どれも私ではない外に意識が向いています。もう1万では足りない位に。そこで私はハッと気づきました。今まで「俺なんて最低だ」「俺の人生なんて終わってる」と私は、自分の事ばかり考えていたのです。
有ることが難しいこと
いまこうして体が動くのも毎日ご飯を食べているからです。その食べ物を提供してくれた人、命、時間、労力、様々なものに支えられて自分は今ここに存在していると、そんな感覚を覚えたのはありがとう1日1万回がきっかけでした。言葉の意味に関心を持ったのは後からですが、有り難い、有ることが難しい、つまり何もないことが当たり前で、何かがあること、いまここに自分が存在しているというのは、多くの人や物事のおかげなんですね。どうしていま住んでいる家は崩れないのだろうと、不思議に思うことが時々あります。安眠枕のお陰で良く眠れます。枕を作ってくれた人にも意識が向きますが、さらに買う時に手元にあったお金が私の所に届くまでにどれだけのドラマがあったでしょうか。色々なことが巡り巡っていて、それでいて不思議なことに今の私が存在しています。こんなことを思う時、自分を作りあげたあらゆる物事が尊いなと感じます。ありがとう1日1万回は修行に近いですが、時々思いを馳せてみてください。「あなたはなぜ、ここに存在することができているのでしょうか?」