コラム

死にたいという感情へ

こころを耕すコラムです。岩田の経験からお伝えしたいことをお届けします。

今回は「死にたい」と毎日思っていた私がどのように「生きたい」と思えるようになったか、どうして「死にたい」という感情が湧いてくるのかといったことを書いております。

「死にたい」が日常

10代の自分は毎日のように「死にたい」と思っていたし、自殺の仕方を考えることが趣味みたいな毎日を送っていました。死にたい一方、死を想像すると背筋が凍るほどの怖れを感じてしまい、リスカすら出来ない自分が恥ずかしく、爪で頸動脈を引っかくのがやっとでした。死にたいのに死ねない自分が恥ずかしく、本当に自分は情けない存在だと考え、そんな自分を変えたいと思っていました。同時に自分は「生きてていいよ」と誰かに認めてほしかったようにも思います。でもそれは家族ではなく、先生でもなく、例えばクラスで人気の○○君であったり、みんなに好かれている○○さんのような人に認められることで自分は存在してて良いのではないかと思い、でも何か違うなとモヤモヤしていました。

とにかく人が怖かった

人が怖かったです。嫌われたらどうしようと思うと上手く話しかけらませんでした。ある程度の仲良く出来る人ができても一緒にいると「自分といることで嫌な想いをさせたらどうしよう」「嫌われるようなことをしてしまったらどうしよう」と思うと一緒にいられませんでした。1学期に出来た友達が3学期まで仲良しだったことはほぼないと思います。そうして人が離れていくと悲しくて淋しくて死んでしまいたい気分になりました。自分は何て孤独なんだろうと。自分は何て魅力が無いのだろう、だから1人なのだろう、と。

そんな私が、どうして「生きよう」と思ったのでしょうか。

死ぬ前に

1つのキッカケと言って良いのはヒッチハイクでした。19歳の私は、20歳になる前に死のうと、ほぼ本気で考えていました。なので、死ぬ前に何かしたいことを自分の小遣いの中で考えた結果、大学の夏休みを使ってヒッチハイクをすることにしました。埼玉県の実家から鹿児島県まで4日間で10台ほど乗り継ぎました。皆さんとても良い人で、今でも乗せてくださった人の写真を大切に保存しています。そして、船で屋久島に向かい、縄文杉を見に行きました。樹齢何千年という歴史を誇る大木なら、生命の神秘というか、生きる意味のようなものを感じられるのではと期待し、この眼で見ておきたかったのです。死に惹かれることは同時に、生に惹かれることでもあります。

朝4時に起き、8時間かけて山を登り、そして頂上まで辿り着いて縄文杉を拝み、そこで感じました。

「ショボ!!なんだこれ?」と。

世間の価値基準

人によっては荘厳な雰囲気を感じ取ることができる貴重な自然遺産であることは間違いありませんが、当時の私には弱々しいただの小さな木に見えました。苦労して4日間かけて辿り着いて、8時間歩いてきた結果がコレかと。世間の価値基準はどうなっているのかと。自分が○○大学に入れなかったこと、自分が人と上手く喋れないこと、交友関係を築けないこと、それらを含め様々な負い目を感じていましたが、その負い目とは、こんなものを世界遺産に選ぶような世間の価値基準を元にしていたのではないかと。そしたら何だか自分を悩ませていた全てがくだらなく思えてきたのです。

自分の価値基準

世間の価値基準、それ自体も自分自身で創り上げた幻想だと今では分かりますが、当時はその価値基準で言えば自分は死んだ方が良いという理屈を持っていました。でも、その価値基準自体が狂っていたのであれば、自分は生きていてもいいのではないだろうか。そう感じた時に、自分を縛り着けていた鎖がほどけてカラダ全体が軽くなったような感覚がしたことを今でも覚えています。そして自分は生きてても良いんだと許せた時、「どうやって生きよう」という想いを抱き始めました。

そして、その時の「生きよう」は、自分が喜ぶ自分基準の生き方を選んでいきました。

価値観が人を殺す

死にたいと思うことは、皮肉にもそれは同時に生きたいと願っていることです。理想の生き方、理想の状態があって、それが叶わず、満たされず、不愉快に感じているのです。
その理想の状態は誰の価値観で作られた基準でしょうか。
それはあなたを殺さなければならないほどの基準なのでしょうか。
その基準はあなたが喜んで受け容れられる基準でしょうか。

1つ言えることは、自分の人生の価値基準は自分で決めて良いのです。
どんな人生も、私はオリジナルな素晴らしいものだと思っています。

私は自殺はダメというよりも、自分ではない世間の価値基準に殺されてしまうことは大変気の毒に思うのです。
自殺防止キャンペーンはいいですけど、自殺をさせてしまう価値基準を植え付けているのは誰でしょうか。
いのちのダイヤルはいいですけど、電話をしなければならないほど追い込んでいるのは誰でしょうか。
ただ、その価値観が自分に合わなければ、そこに合わせる必要はない、違う道でも良いと、自分を許すことができるのは、自分だけなのです。

苦しさに耐えていられるガッツも、自分を許せずにいる正義感も、私は強さを感じます。
だからこそ一方でそんな人達が、自分が生きたいと思える価値観の中で生きることを、自分に許すことが出来たらいいのになと思っているのです。

 

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